立川談志の最期を描く
談志が死んだ
立川 談四楼(著/文 他)
その死は弟子たちにも伏せられていた。立川談志、享年七十五。この不世出の落語家に入門したのは十八歳の春だった。それから四十年近く惚れ抜いた師匠から突然の破門宣告。「てめえなんざクビだ」。全身が震えた。怒りの理由が分らない。振り回され、腹を立て、やがて気づいた。大変だ。壊れてるんだ、師匠は――。偉大な師匠(おやじ)の光と影を古弟子(せがれ)が虚実皮膜の間に描き尽す傑作長篇小説。
回文という文章がある、上から読んでも下から読んでも同じ文章。
まさに、「だんしがしんだ」はこれにあたる。
7代目(ただし自称5代目)立川談志氏は落語家であるが、政治家だったこともある。非常に個性的な人物だった。
どんな死に方をする・・という小噺の中で、談志は自らを他殺と話していたのが印象的だ。結果的には病死だったのだが・・・
古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けたという、確かに古典を只の古典では無く、談志流にアレンジし、現代を取り入れた芸風だったと思う。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力だったと、高く評価されている。一方、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家だった。
1999年、長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した。全国的に報道されて話題になった。
実は私は飯田市の近くの町の出身で、たまたまこの事件に居合わせていた。客席から見ていると、突然不機嫌となり、「やってられない」という感じで高座を下りてしまった。
主催者の説明などがあり、その客は追い払われた格好になった。
これも賛否が分かれるところだ。
後年、大阪の「天満天神繁昌亭」に訪れたとき、やはり一番前の席で終始寝ておられる客が居た。芸人さんは皆、気にしつつも何事も無かったように高座を勤めておられたが、談志を思い出し、あのような毅然な態度も必要かと感じた。
さて、立川談四楼氏は落語立川流のなかで若手・中堅への貴重なお師匠番として重宝されている。落語家とともに小説家としても名を成した稀有な人材だ。
小説家としては、もちろん落語・落語界、日本語を題材にした著作が多い。しかしながら談四楼自身はボクシングの大ファンであるため、ボクシングを主題にした作品「ファイティング寿限無」などがある。
彼が描いた7代目の最期とはどのようなものだったのだろうか。